『社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳/岩波文庫/1998)』を読む②
《言い訳》
まずはじめに、これから書くと思いたい(三日坊主的な意味で)文章は、上記の本を読んでの備忘録的なメモです。
誤った解釈は書いた人間、つまり私の責任です。
《形式》
基本的に段落ごとに超解釈や思ったことを徒然表記しています。
【段落数】-(解釈)
というスタイルです。
《本題》
【11】-例えば同情や怒りといった感情に対しての思考、規範や倫理を揺さぶる良心に対しての思考、と〈客観的〉な事実であると〈主観的〉に考えることこそを考え、それを明らかにすることは区別できる。各々導き出された思考の抽出物は、感情は共感できる/できない、倫理は同意する/同意しないという形で各個人の〈世界観〉によって共有が左右されるが、後者の科学的真理命題と呼ばれるものは対象の文化的意味、それが何を意味しどのような機能を持っているか、を与えることはあるかもしれないが各個人の〈世界観〉を問わず共有されるもので無くてはならない。
【12】-各個人の〈世界観〉を問わず共有されるものを目指すべきであるが、一方で個人の理想を主張すること、〈世界観〉を主張することが無意味である、ということではない。〈客観的〉である科学的な視点と問題を発話した〈主観的〉な理想が両立するためには、まず理想と理想を発話した価値、究極的な価値が何であるかを、時には妥当であるかを含めて、意識しなければならない。
【13】-また、理想がある個人の〈価値〉である以上、科学的な〈客観性〉、つまり認識されているそれ事態、に影響がないゆえに、理想とそれ以外とを厳密に境界を区切らなくればならない。
【14】-避けがたいこととしては、対象を対象たらしめんとする「問題」を生み出す私の視点、〈私〉の価値を脅かそうとし「問題」を「発見」することこそが、問題となり得る。雑誌ではそれが「労働問題」を扱うというある種の「正確」を産み出し、強みとなっていった。
【15】-しかし、こうした「性格」は一方では偏向といった科学的であるという態度を脅かすかもしれない。よって、「性格」の良き発展としては、この「性格」がどのように形成され、変更されているのか。ということを自覚しなければならない。こうして「労働問題」から出発した雑誌の性格は必要が有る場合ではあるが、より問題圏の拡大をなしえるのである。
【16】-実際に雑誌は社会科学的なものとして存在している。今までこの研究領域の範囲は「価値判断」と「経験的知識」を区別すること、を標榜してきた。しかし、これ事態、区別すること、思考による秩序付けは果たして考えても良い真理をはらんでいるかどうかといった前提がまた存在する。
【17】-まずはこの研究領域、つまり〈社会-経済的〉とは何ものであるか、といった検証をしていく。
【18】-私たちは普段生活する中で物質的/精神的を問わず様々な〈欲求〉を持ち、昇華するための手段を用いている。この過程を現象とし、特に私達自身がそれを〈経済的〉と付与する時、それ自身が対象となりえるのである。
【19】-この現象はおおまかに、〈経済〉現象、〈経済を制約する〉現象、〈経済に制約される〉現象に区別できるが、これらは現象の対象が何を目的とし、どこに向いているかによって見方が変わるものである。
【20】-見方が変わる、つまり、私達がそれを対象とした時、という歴史的な視点に立ってみた時、どこを向いて解釈しているのかを歴史的に解釈することこそが研究領域の射程を示している。
以下次回
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- 2013/04/15(月) 02:13:50|
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