『社会科学と社会政策に関わる認識の「客観性」(マックス・ヴェーバー著、富永祐治・立野保男訳、折原浩補訳/岩波文庫/1998)』を読む①
《言い訳》
まずはじめに、これから書くと思いたい(三日坊主的な意味で)文章は、上記の本を読んでの備忘録的なメモです。
誤った解釈は書いた人間、つまり私の責任です。
《形式》
基本的に段落ごとに超解釈や思ったことを徒然表記しています。
【段落数】-(解釈)
というスタイルです。
《本題》
【1】-雑誌が「社会科学的」であろうとするためにはまず「社会科学的」とは何かを明らかにする必要がある。「This is a cat.」という文章の意味を日本語を母語とする私が理解するには、まず「cat」とは日本語で言うところの「猫」であることを私が知らなければならない。あるいはもしかしたら、「cat」は猫ではなく発した人間が猫と読んでいる猫型ロボットかもしれない。単語は一区切りで意味を付与できるが、意味、対象と範囲、を正確に限定しなくとも、単語を使うことが私達にはできる。しかし意味の限定のない単語は後述する各個人の世界観によって幅広く解釈されうる。争いが起こり、勝利あるいは敗北をもたらす。よって「科学的」であるならば少なくとも「それが何者であるのか」を説明すべきである。「社会的」とはある種の現象を対象として指す言葉ではなくひとつの観点である。これは、どのような歴史の上で成立し、どのようなものと因果関係を持ち、どのような時に使われるものなのか、を意味する。では「科学的」とは何か。それは現象の認識の方法であり、客観的に事実を認識することを意味している。(が、一方でこの説明がとても弱いことを自覚している)。よってここでは「社会科学的」とは、観点と認識に関わる一つの方法論を示している。
【2】-社会学は、(特に最近、2013年時点)、問題の解決を図ることを意義、とすることがある。これを社会政策とひとくくりにした上で、どうしてこれが「科学的」と結びつくのかを、まず取り上げる。というのも「科学的」とは客観的な事実を認識すること、実験を行なっても同一の環境ならば同じ結果が生じる事実を認識することである。一方で社会学が取り上げる問題にはあらゆる判断が生じ、ある規範をもって一つの判断を選び、妥当性を検討し、提示し、そして妥当性と規範の見解が争われる。この闘争は時には決着が着くこともあるが、往々にしてそれは弁が立つという技術的な勝利であり、事実への意味付けや揺るぎない認識の確立ではない。では、社会学、社会科学とは科学的と言えるのであろうか、そしてなりえるのだろうか。
【3】-「社会科学」というのは学問として出発した以上、ある種の要請に応える技術を要している。それは、国家における経済政策と密接に結びつき、その政策に価値判断を生み出すという実践的な観点から出発した。しかしかといってその技術が洗練され、確立したものとは言えない。それは「存在」と「当為」が度々区別されていない状況が表している。自然主義的に言えば、「在り、そして存在する」ものとして見なされ、歴史主義的に言えば、「在るものは在るべくして存在する」ものとして価値を付与され、区別されなかった。このことは何を意味しているか。それは社会科学が行なっている様々な価値の付与と選択が、「存在(あるもの)」に対して行なっているのか「当為(あるべきもの)」に対して行われているのかを自覚していないことを意味している。特に人間の活動を対象とする場合、「当為」がいかにして「存在」に成り代わり、私たちの日常を構成しているかを自覚しなければならない。
【4】-人を愛するべきである、正義を行うべきである、助けあうべきであるという「べき論」を自覚することは必要であるが、一方でそれらの規範や理想に従い、実践のための処方箋は、社会科学では必要ない。寧ろ、規範や理想を明文化させることの権力性を認識することが重要である。
【5】-規範や理想を構成する価値判断、私達が何をもってそれをそれと認識するかという基準、は主体的ではあるが、主体的な事柄は科学的に取り扱うことができない、ということは、ない。問題は、私達がどのような価値をもって何のために判断する/しているのかという客観的な事実であるという点である。
【6】-行為というのものは「目的(そのもの自体の価値)」と「手段(価値を実現するための方法)」から成り立つ。その意味では、ここでいう行為は限定的であることを認識しなければならない。科学的な対象になり得る行為を科学的に考察する場合、技術論的批判として①目的を達成するための手段があり、そしてその手段が妥当であるか、②目的や手段を実行した時に何を得て何を犠牲とするか、を指摘することがありえる。しかし、ある行為を行う時、その妥当性や犠牲の采配は科学の分野ではなく、個人の世界観や良心が行う点を強調する。科学的態度とは、自らの及ぼす範囲を客観的に認識し、かつ、選択を行うことである。この時導き出される科学的な批判は根拠になり得るが当為ではない。また、選択自身もまた、純然たる根拠を得る以上、自覚的に犠牲を引き起こすという、責任を負う。
【7】-形式論理的批判として、③個人が選択することそれ自身の目的や付随する諸現象の解明、が社会科学としての課題のひとつといえる。
【8】-また、同じく形式論理的批判として④選択する際の「価値判断」自体に矛盾をもたないか、という評価はできる。そして個人への還元としては、個人の「人格」に根付く究極の価値基準への自覚や反省を促すという点である。一方でこの個人自身、先に上げたとおり、自身が持つ価値基準への責任が生じ、また、それを引き受ける個人である。
【9】-いままでみてきたように、経験科学は「べき論」を語ることはできない。一方で「べき論」が成り立つ背景もまた、存在する。それは、A)個人の理想や世界観の実現を目的とする時、B)個人の究極の価値基準が意義あるものとして反映を促す時、C)人命や正義の尊重などの目的を真理として在るものとする時である。特にC)は政策上、価値あるものとして目的に据えられることがあるがむしろ個人の世界観の主張に過ぎない。また、ひとつの原理(科学的に確証した)をもって解決を図れる、という見解も「べき論」である。よって、なんらかの倫理的な命令、例えば人命の尊重、から社会的な営みを「べき論」で導き出すことはできない。このように、「価値」そのものは個々人の世界観の争いである。では経験科学とは何を見出すものなのか。それは〈私〉が何に囚われているか知り、〈私〉の世界観から囚われ固執していた意味を取り除き、自覚的で責任のある〈私〉の物語をつくり上げること、である。
【10】-このような意味では、個々人の世界観から妥当性を探るという折衷主義、いわゆる落とし所をつける、ことは科学的ではない。個々人が事実を科学的に認識する一方で自らの価値判断をもって理想を実現する義務を負うこと、それにおいて、価値の自由とはなされるのである。
以下次回
- 2013/04/14(日) 02:51:14|
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